ガンダムのテーマ わかりあえない人類
こんにちは
今回は前回書ききれなかった「ニュータイプ」、そして「わかりあえない人類」について書いていきます
ジオン・ダイクンが提唱したニュータイプは人類の革新となるかに思えました。しかし現実はそうはなりませんでした
UC.0079、ジオン公国は地球連邦に対して独立戦争を仕掛けます。世に言う「1年戦争」ですね。この大戦の後期にニュータイプが明確な存在として現れます。しかしニュータイプはダイクンの期待した形ではなく、戦争の道具として扱われる形となりました。ニュータイプの相手の意思を読み取る能力やサイコミュ機能を使いこなす能力は戦争において絶大な力を発揮したからです
ニュータイプは戦争の道具でしかないのか。これを見直すひとつのきっかけがアムロとララァという当代至高のニュータイプ同士の邂逅です。アムロとララァが劇中で会ったのは数えるほどです。2人で特別な体験をしたわけでも長く時間を共にしたわけでもありません。にもかかわらず2人は互いに惹かれあいます。しかしその2人が最後に再会するのは戦場でした
戦闘をする中で2人はニュータイプ特有の精神世界で互いの価値観をぶつけ合います。しかし彼らは分かり合えませんでした。互いの価値観を受け入れられないまま、最後にはララァがシャアを庇いアムロによって殺されます。このアムロとララァが分かり合えなかった事実、そしてその後ララァの死という苦しみを背負い、時には共闘しながらも最後まで分かり合えなかったアムロとシャアの関係が僕はガンダムにおける「わかりあえない人類」を表していると思います
人類は長い歴史の中で戦い続け、人類全体がわかりあうことのないまま悠久の時を過ごしてきました。そこにニュータイプという人類の革新とも言うべき存在が表れ、人類は変わる契機を掴んだかにも見えました。しかしニュータイプもまた戦争という中では道具にしかなりえず、ニュータイプ同士も殺しあう運命を辿らざるを得ませんでした。ニュータイプという存在を経てもなおわかりあえず戦い続ける人類というある種の絶望を抱えた作品がガンダムではないか、僕はそう思います
ニュータイプの話になると筆が乗りすぎて良くないですね…
もうひとつのテーマである「地球汚染」についても書こうと思ったのですがエヴァとの比較の軸にはならないのでまた別の機会に書こうと思います
次回はエヴァについて
長くなりがちなのでできるだけ簡略に書いていく予定です
ではでは